代表エッセイ④ ヨハネスブルグで出逢った少女たち

こんにちは。ダイヤモンド・フォー・ピース(DFP)代表理事の村上です。当法人を立ち上げたきっかけ等について、月1回エッセイを書いています。
第1回「1枚の写真が人生を変えた!?」はこちら:
https://diamondsforpeace.org/essay1/
第2回「私の価値観を変えたのは…」はこちら:
https://diamondsforpeace.org/essay2/
第3回「ハイチで事件勃発」はこちら:
https://diamondsforpeace.org/essay3/

南アフリカ共和国ヨハネスブルグへ

話は少し前に戻ります。

アメリカに留学して一年、待ちに待った夏休み。それまで二回ハイチに行っていた私は、アフリカで子どもに関わるプロジェクトでボランティアしたいと思っていました。それで南アフリカのヨハネスブルグでストリートガールズ(路上で暮らす女の子たち)を支援する団体の活動に参加することにしたのです。

ヨハネスブルグは犯罪率がかなり高く、活動地域のヒルブローはその中でも麻薬売買や売春の中心と言われるところだったので、その団体の現地スタッフと一緒でないと外出してはいけない、と言われていました。この団体はヒルブローに家を持っていて、七歳~十五歳くらいの女の子が、面倒をみてくれる中年夫婦と一緒に暮らしていました。日中は、その地域に住んでいる十代後半から四十代くらいの女性がおしゃべりやお茶を飲みに来ていました。

ンタビセン、7歳

その家には七歳の女の子、ンタビセンが住んでいました。南アフリカは多民族国家。言語も、英語、アフリカーンス語、ズールー語などたくさんあります。ここに住む子達はストリート出身なせいか、言葉遣いがあまりよくありません。彼女たちが私に一番最初に教えてくれた言葉が、「カーク。」これはアフリカーンス語で「くそ」という意味。他に教えてもらった言葉はすっかり忘れてしまったのに、これだけは覚えています(笑)。

ンタビセンはこの家から脱走するのが趣味(?)でした。一週間に一度くらいの頻度で、家からいなくなるのです。しばらくしてスタッフが探しにいきます。そうすると近くの路上で他のストリート仲間とシンナーを吸っていたりするのですが、「一緒に帰ろう」と言うと、素直に一緒に帰るのです。両親を失い愛情に飢えているので、スタッフの愛情を確認しているのかな、と感じました。

ンタビセンの両親は自殺したと聞きました。それでお兄ちゃんと一緒にストリートで暮らすようになったそうです。本人はおもしろおかしくその話をしてくれましたが、心の中は傷だらけだったに違いありません。いつも誰かに構って欲しくて、まとわりついてきていました。お風呂に入らせている時、彼女の背中を洗っている時にポロっとウンチされたのには、びっくりでしたが(笑)。

ちなみになぜシンナーを吸うのかというと、寒さを感じなくするためです。南アフリカはアフリカとはいえ、緯度が高いので冬は雪が降るくらい寒いのです。アフリカの他の国も気候が乾燥している国が多いので、昼間は温かくても日が沈むとかなり寒くなることが多いです。

小さい時に路上生活を始めてしまったンタビセンには母国語がありません。路上ではストリート特有の多くの言語が混ざり合った言葉が話されています。その状況では一つの言語を習得することが難しく、彼女には「母国語」と呼べる言語がありませんでした。言葉の問題とシンナーを吸っていたことから(脳への影響が少なからずあると思います)、彼女の理解力は七歳の子のそれよりだいぶ低いものでした。このまま大人になってしまったらどうなっちゃうんだろう…

本を読んだり文字を書いてもらおうと思っても、10分と座っていられません。この家に住み続けることができても教育を受けなければ、大人になったらまたストリートに戻ってしまうんじゃないか。私はそれが心配でしたが、どうすることもできませんでした。

母国語の大切さ

思考力を高めるには、母国語の力を高めることが重要だと思っています。外国語ができるに越したことはありませんが、外国語の能力が母国語の能力を超えることはありません。言葉を操る前に、その言葉を使って「何を言うのか、何をするのか」を磨くことが大切だな~と思うこの頃です。

冒頭写真:ボランティアした団体の家で暮らす少女たち。短髪ですが、全員女性です。左端がンタビセン。右端が世話役のお母さん。(許可を得て、村上撮影)