代表エッセイ②「私の価値観を変えたのは…」

こんにちは。ダイヤモンド・フォー・ピース(DFP)代表理事の村上です。当法人を立ち上げたきっかけ等について、月1回エッセイを書いています。

第1回「1枚の写真が人生を変えた!?」はこちら:https://diamondsforpeace.org/essay1/

アメリカの大学院で国際開発学を勉強することを決意した私の裏ミッションは、「自分の価値観を壊すこと」でした。私は「毎日心配しなくても、ご飯が食べられる。明日の食事を心配しなくてよい。それが当たり前になっている自分の価値観はおかしいのでは?」と感じていたのです。

ではアメリカで私の価値観は変わったのでしょうか!?
答えは、「ハイチで私の価値観が変わった」です。

大学卒業後すぐに大学院に進学した私にとって、国際協力現場での経験がないことが自分の最大の課題でした。現場を少しでも経験し、見て感じることが不可欠。でないと途上国の様子を具体的にイメージすることが困難だったのです。

そこで私は長期休暇に日本に帰らず、途上国を訪問することにしました。ご縁があったのが、ハイチ共和国。カリブ海のイスパニョーラ島西部に位置する西半球の最貧国です。まず、ハイチへのスタディツアーにまず参加しました。この後、何度もハイチに戻ることになるとは夢にも知らずに…。

ハイチ(赤下線)の位置関係

Google Mapより

 

ハイチ共和国基礎情報:
人口:1,084万人。
民族:アフリカ系9割(主に西アフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫)。
言語:仏語、ハイチ・クレオール(仏語と地元の言葉が混ざり合った言葉)。
宗教:キリスト教、ブードゥー教(外務省ハイチ共和国基礎データ[1]より)

ハイチ略史
1492年コロンブスがハイチを発見。その後スペインからの入植者がハイチに住み、元々住んでいたアラワク人を絶滅させる。スペインは西アフリカから黒人奴隷を連れてきて、島の主に東部で経済活動を行った。1659年以降、フランスが島の西部を少しずつ占領し、1697年、島の西側3分の1がフランス領(現在のハイチ)となった。フランスは西アフリカからの奴隷を使い、林業やサトウキビ、コーヒー栽培を行い巨額の富を生み出す。

1791年、黒人奴隷や混血の人々が蜂起。1804年にフランス軍を駆逐し、独立を宣言する。その後、国は混乱状態が続く。フランス系植民者から接収した農園や奴隷に対し、フランスから莫大な金額の賠償金(約6000万ドル)をハイチは請求される。それまでどの国からも独立国家として承認されなかったハイチは、フランスから独立を承認してもらうため賠償金の支払に応じることにした。この賠償金が100年以上ハイチを苦しめることに。実際に完済したのは1922年で、この借金によりハイチ経済は破綻した。(Wikipedia[2]、ハイチの会[3]の情報を要約)

親に捨てられる子ども達

ハイチでは、アメリカ人ブラザー(キリスト教で言うところのブラザーです)が運営する孤児院にゲストハウスが併設されている施設に泊まっていました。ハイチには孤児がたくさんいます。滞在中仲良くなった子に、「どうしてこの孤児院に来たの?」と聞いたところ、返ってきた返事は、このようなものでした。
「僕、小さい時は田舎の方に住んでいて、ある日お母さんと一緒に首都に来たんだ。市場でお母さんと一緒に歩いていたんだけど、はぐれちゃったの。お母さんを探したけど見つからなくて。しばらくストリートにいたんだけど、ある人が僕をここに連れてきてくれたの」

他の子にも孤児院に来た理由を聞いたのですが、多くの子が同様のことを言うのです。不思議に思った私は、孤児院の運営者に聞いてみました。そして分かったのは、親は子どもを捨てるために田舎から首都の市場にやってきて、わざと子どもとはぐれるのだということ。国に産業がなく仕事のない人が溢れているこの国で、子どもを育てていけないと思ったのでしょうか。子ども達はそんな裏事情は知らず、「いつか自分のお母さんが僕を迎えにきてくれる」と純粋に信じていました。切ない。。。

ハイチのとある市場

村上撮影

ハイチ人にだまされる

ある日、孤児院のそばによくいるハイチ人と顔見知りになりました。何度か顔を合わせて話していると、「俺、日本大使を知っているよ。彼を呼ぶから夕食に一緒に行こう」と誘われ、なぜこの人が日本大使を知っているのだろうと不思議に思いつつも、その話に興味を持ったアメリカ人と一緒に行ってみることにしました。

レストランに着いて、ビールを飲みながら待ったのですが、日本大使はきません。そのハイチ人はビールをがんがん飲んで、食事もしています。「もうすぐ来る」という口車に乗せられ、結局2時間程待ち、だまされたと分かった私たちはキレ気味で帰ることに。ハイチ人の飲み代・食事代を払わされ怒った私たちを見て、彼は数日間どこかに逃亡。

今思えば、途上国あるあるですが(笑)、これが私の記念すべき?第1回途上国だまされ事件となりました。

数年後に聞いた話ですが、そのハイチ人は人の家に盗みに入り、射殺されたそうです。「嘘つきは泥棒の始まり」は本当なのですね。。。

 

何日も食事をしていなければ、だましたり盗むしか方法がないのかもしれない。お金や食べ物に余裕がなければ、心にも余裕が生まれない。資本主義というルールの中で生きていると、そうなってしまうのでしょうか。

そんなこんなでハイチでは「最貧国の洗礼」を受けることになります。

他にはどんな事件があったのでしょう?

(つづく)

 

冒頭写真:泊まっていた孤児院で孤児との記念撮影

[1] ハイチ共和国、外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/haiti/index.html

[2] ハイチ、Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%81

[3] ハイチの会 http://haitinokai.com/?page_id=32